「作陶は、器の魅力を終わりなく自問自答する生業。」
伊万里を拠点に活動されている「白華窯」吉永サダムさん。使い手への気遣いが行き届いたモダンデザインの器で、幅広いファン層の心を掴む人気作陶家です。カフェ&ダイニング「KARAE TABLE」の器としても大活躍している吉永サダムさんの作品。自身のスタイルを確立して、常に進化を続ける吉永サダムさんにお話を伺います。
伊万里焼の産地、伊万里市に生まれ育った吉永サダムさん。当時から陶芸家や伊万里焼を意識されていましたか?
地元・伊万里がやきもの産地であることを知ってはいたものの、陶芸の道を考えたことは全くありませんでした。やきものを意識したのは大学進学で地元を出たときです。私は大学時代を京都で過ごしたのですが、当時は今以上に「佐賀県」という地名が通じませんでした。「佐賀県出身」と言うと「四国?」なんて聞かれることもしばしば(笑)。でも、「伊万里市出身」と言うと「やきものの産地だね!」と言ってもらえることに気づきました。印象に残っているのは、手び練り体験をしたときに、工房の方に伊万里市出身と伝えると「本場のところだね!」と言われたことです。京都はまさに伝統と歴史のまちですから、そこに住んでいる人が私の地元を“本場”と呼んだことに驚いたわけです。
陶芸の道へ進んだきっかけは?
幼いころから絵を描くことが好きで、祖父の友人が開いていた絵画教室に通っていました。本格的ではないけれど、水彩画、油絵、デッサンと一通り習う中で、漠然といつか絵に携わる仕事をしたいなと思いがありました。
そして、大学在学中にいよいよ本格的に将来を考えなければとなったとき、美術の先生はどうだろうと思うように。けれど、当時通っていた大学の学部は教員免許が取れなかったので、美術の先生になるには別の学校に通う必要があったんです。どうしたものかと考えていたとき、ある人から窯業大学校を勧められました。作陶であれば、絵付けの仕事があって絵を描き続けられると思い、有田にあった窯業大学校(※1)へ進むことにしました。
(※1)佐賀県立有田窯業大学校
佐賀県西松浦郡有田町にあった陶磁器専門の専修学校。2019年3月卒業生を最後に閉校し、現在は佐賀大学・佐賀県窯業技術センター人材育成事業に移行した。
絵を描き続けたいという思いがスタート地点だったんですね。絵付け職人ではなく作陶家となったのはなぜでしょう?
もちろん、窯業大学校での幅広い授業の中で、絵付けの授業もありました。素地(きじ)を与えられて絵を描いていくのですが、 素地が量産の当たり障りのないもので、このキャンバスは面白くないと感じるようになりました。それで、もっと絵を描く意欲が湧くようなキャンバス作り、つまり素地作りから自分自身でやってみようという気持ちになりました。
そして素地作りを本格的に学び始めたのですが、陶土にはたくさんの種類があり、しかも掘り出せばまた新しい素材が生まれる。さらに同じ陶土を使っても湿度や温度、火の入れ方、釉薬との掛け合わせで無限のパターンが作れるんです。素地作りをするうちに、素材から向き合う面白さと奥深さにのめり込み、作陶の道を志しました。
サダムさんは窯業大学校ご卒業後、嬉野を拠点に活動する「風ン谷淳窯」野村淳二さん(※2)に師事されました。どのようがご縁があったのですか?
学生時代に、個人的な課題として、古い時代の有田焼の復刻をしていた時期がありました。ところが、どうしても上手くいかないんです。窯業大学校の講師に聞いたり、いろんな実験をしてみたりするけれども解決しなくて悩んでいたときに、野村先生が勉強会を開くということで参加しました。そのとき、先生に相談すると方法をすべて教えてくれました。実際に教えてもらった方法を試してみると、すぐにできたんです。
これはやきものの世界に限ったことではありませんが、技術は門外不出だったり、ひとりの作陶家が墓場まで持っていくようなことも多く、手の内を教えてもらえることはほとんどありません。そんな中、弟子でもない私になぜ全て教えてくれたのかと先生に聞きました。すると、「教えてできることは大したことではない」と言うんです。作陶は気温や湿度、使う素材によって変わります。レシピのように数字で表すことはできません。本人の培ってきた経験値、手の感覚が必要です。だから、技を教えてもらっても、その技術を自分のものにできるか否かは自分次第というわけですね。先生は、その数字や言葉で表すことのできない技術に「美しさの秘密がある」と仰いました。私はその言葉に胸を撃たれ、弟子入りを決めました。
(※2)「風ン谷淳窯」野村淳二さん
佐賀県嬉野市に窯元を構える作陶家。2022年に作陶歴50年を迎える。
余談ですが、私が作品を見て衝撃を受けた陶芸家に澤田痴陶人(※3)がいます。彼は大英博物館で日本人陶芸家として初めて個展を開催した、伊万里にゆかりのある人物です。実は、私の師匠である野村先生は、澤田痴陶人の息子・澤田じゅん(じゅん:牛偏に享)さんの弟子なんです。私が参加した野村先生の勉強会も、もともとは野村先生と澤田じゅんさんが合同で行っていたものでした。そういう数奇なご縁が重なりました。
(※3)澤田痴陶人/1902-1977年
日本の陶芸家。京都府宮津市生まれ。1934年有田窯業試験場で陶芸図案を指導。1960年に佐賀県嬉野町へ移住。1968年伊万里陶苑の創設に加わり、顧問デザイナー となる。1997年、大英博物館ジャパンギャラリーで日本人の陶芸家として初めて個展が開催される。
2006年に独立されたサダムさん。間もなく20年の節目を迎えるわけですが、これまで大きな転換期はありましたか?
独立して5年目の頃、自分自身に革命が起きたことがありました。当時、営業や視察を兼ねて関東のギャラリーを周ったことがあったんです。リュックに自分の作品を入れて行ったのですが、1軒目で強烈な違和感を感じました。いざ自分の作品を売り込もうと言葉にしたときに、今まで作ったものは先生の真似だったと気が付いたんです。同時に、先生の世代ではなく、自分たちの世代へ向けて発信しなければと思いました。それで、これまで作った作品や、作陶の際にサイズの基準に用いるトンボ(※3)などの道具、なにもかもを全て捨てました。
(※3)トンボ
作陶過程の成形において、作品の深さや直径などを測る道具。作陶家が自身の作品スタイルに合わせて、自ら作ることが多い。
まさにゼロからの再スタート、思い切りましたね!
清々しい気持ちでしたよ。全部なくなったんだから、もうやるしかない!と。先生の作品を真似したサイズではなく、世間がほしいと思う器のサイズとはどこか?そういう根本的なところから全てやり直しました。丁度その頃に、佐賀大学が主催した唐津焼の若手作陶家を集めたプロジェクトに参加したり、唐津で私の作品を仕入れてくれるお店ができたりと、変化を求めて外へと目を向ける時期でもありました。そうやって、先生に影響された作品から、私自身の作品づくりに進んでいきました。
伊万里・有田は石を原料とした磁器、唐津は土を原料とした陶器と、同じやきもの産地でも全く異なります。サダムさんは半磁器と呼ばれる、石と土を混ぜた素材を使用されていますね。
実は唐津の窯元やギャラリーとの交流が始まったとき、磁器と陶器、どちらへ進もうかと考えるタイミングがありました。当時、私は有田の磁石場から採取できる泉山陶石(※4)について研究していました。泉山の土は粘土性が低く、一般的に扱いづらいと言われているのですが、古唐津の技法を応用して土づくりをすれば泉山陶石を用いたやきものが成功するのではないか、という仮説の立証実験です。実際、仮説の通りに作陶はある程度は成功しました。
一方で、泉山陶石の作陶に向き合えば向き合うほど、古いものに引っ張られる感覚がありました。例えば九州陶磁文化館に行けば、古くに作陶された良い品をたくさん見ることができます。力のある作品を見ると、どうしても影響を受けてしまうんです。はじめからオマージュをするつもりで作陶するのであれば、もちろんそれで良いのですが、私の場合は自分自身の作品を作りたかった。けれども、かつての作陶家たちに影響を受けた作品では、胸を張って「私の作品だ」と言えないように思えたんです。
それで、作陶の原料もゼロに立ち返り、オリジナルブレンドの土づくりを始めました。今使っている原料はまさにその延長線にできたもので、粒入りの荒々しい土を使いながらもブレンドすることで柔らかく温かみがあるように調整しています。
(※4)泉山陶石
17世紀初頭に朝鮮人陶工 李参平らによって発見された、泉山(現在の有田市)で採集される陶石。中でも、大川内山にある鍋島藩の御用窯で使用され、最高級の原料とされた。現在、泉山磁石場は国指定史跡に指定され採掘は行われていない。
作風や個性はどのように生まれるとお考えですか?
修行中は、先生から「これを作りなさい」とお手本を渡されて、お手本を真似するところから始まります。真似る中で、できない部分は必ずあります。それで、同じものを100個、1000個と作るうちにできない部分を補おうとします。すると、手法や作品に対して自分なりの解釈が生まれてきて、完成に近づくけれども、お手本からは遠のくような感覚になっていきます。そうして生まれた自分自身の解釈が、作風の基礎を作るのではないかと思います。
独立して15年以上になりますが、今も修業時代と同じですよ。同じものを300個作って気づきを得て、さらに900個作って新たな発見がある。その積み重ねによって少しずつ作陶の過程が洗練されていき、器に個性として反映されます。新しい閃きに出会えるのは1001個目かもしれない、と思って作り続けるんです。ひとつのフォルムを延々と繰り返すわけですから、とても地道で根気のいる作業です。でも、1001個目で閃いたときに、今よりさらに良いものができる。それを経験から知っているので、1001個目が楽しみでもあるんです。
ひとつの物事に向き合い続けるからこそ、常に進化をし続けるんですね。
目と手が追いかけっこをしているような感じです。手の技術を付けたころには、目が肥えていてより良いものを求めるようになるし、イメージを形にできるようにより技術を磨く。その繰り返しです。
例えば湯呑みひとつとっても、独立当初、5年目、10年目、現在、それぞれにフォルムが違います。当時は「これが渾身の作だ!」と思って出すわけです。けれども時と共に作品を見る目も技術も肥えるので、昔作ったものを今改めて見ると気恥ずかしかったりもします。
でも、ものは形として残ります。お客様の前では作陶の年数、新興の窯元か代々継いできた窯元か、出身がやきもの産地なのか、そういったことは関係ありません。だから、作風が変化や進化を続ける中、どんなときでも胸を張って「私が作った」と自信を持って言える作品を世の中に出しています。
現在の作陶する上でのコンセプトを教えてください。
ものには使われる目的があって常に使い手がいます。なので、どのようにすれば使い手が使いやすく、また美しく使えるのか、という点を常に考えています。
一方で、デザインは空間との相性を重視しています。今のライフスタイルや住まいには和洋折衷でシャープなデザインがしっくりくると思うので、モダンな作風に仕上げています。また、個展などでの展示になると、同じ作品でもギャラリーによって全く違う見え方になったりもするので、その空間のイメージを持ち帰って新作に挑戦してみることもあります。
若手の頃は、とにかくひとつの器を作り上げることが精いっぱいでした。けれども、年数を重ねるごとに少しずつ余裕が出てきて、器を完成させることだけでなく、器の美しさに意識がいくようになりました。そして器の全てが鮮明に見えるようになると、器を置く空間に目を向けるように。今は、日常の食卓でもギャラリーの展示場でも、なるべく器が舞台に映えるように仕上げることを考えていますね。
サダムさんの作品は、唐津焼の伝統的な要素を取り入れつつも、新しいやきものとして分野を確立しているように思います。ご自身としてはどのように捉えていますか?
京阪以西(西日本)で作られたやきものを、かつては「からつもの」と総称していました。これは唐津だけでなく、伊万里や有田を含めた西日本で作られたやきものを、唐津港から京へ出荷していたためです。実は、現在一般的に使用されている「唐津焼」や「伊万里焼」という呼称は、最近になって便宜を図るために用いられたものなんです。
こうした歴史背景を考えてみても、食器として使われることを前提にしたやきものに、○○焼というカテゴリーは、突き詰めれば必要ないのではないかとも考えたりします。つまり、使い手が使いやすい、ライフスタイルに合致すると感じることが、やきもの名のカテゴリー以上に大切なことではないかと思うんです。だから、私は、唐津焼作陶家でも伊万里焼作陶家でもなく、陶工芸家を自分の職業としています。器を使うことの意味や、素材の特徴を踏まえた器の魅力を、終わりなく自問自答する生業です。やきものに携わる人がそれぞれ自分の生業を続けていく中で、その姿を見て誰かが影響やヒントを得て、次の世代につながる。この先も続くようにバトンを渡すことが、伝統を守るということではないかと思います。
サダムさんにとって作陶のモチベーションは?
手仕事である以上、私自身が限られた時間で作り出せる器のキャパシティーは限度があり、だからこそなるべくより良いものを作るよう心掛けています。そうして私が思いを込めて作ったものを、わざわざお金を出して自分の手元に欲しいと思ってくれる人とは、きっと私とお客様との間で通じ合い共有できる感覚的な何かがあると思うんです。いろんな人や場所に嫁いだ私の器が起点となって、やがて点と点が繋がっていくような感覚があります。今はまだ線だけど、いつか面に、もしかしたら立体になっていくかもしれない。出会いのつながりが楽しみであり、作陶を続けている理由です。
最後に、今後の展望を教えてください。
仕事は事に仕えると書きますよね。つまり物事に向き合うことが仕事だと思いますし、それをできる人間がプロフェッショナルだと思います。これまで同じ湯呑みでも何千個と作る中で気づきや発見があったように、満足のいく出来の作品を仕上げても、数年後にはより良くするためのアイデアが生まれて、それを実現するためにまた技術を磨いていく。だから、私にとって作風は不可逆的で、進化を続けるものです。一生ものの仕事だと思うから、まだまだ修行中の気持ちですし、だからこそ将来への楽しみが尽きません。心豊かに、楽しく、作陶と向き合いながら常に進化を続けたいと思います。
吉永サダム -Yoshinaga Sadamu-
1975年佐賀県伊万里市生まれ。龍谷大学卒業後、佐賀県立有田窯業大学校で作陶を学ぶ。卒業後、嘱託講師として同校に2年勤務。佐賀県嬉野市「風ン谷 淳窯」野村淳二氏に師事。2006年「白華窯」を開窯する。シンプルかつモダンなデザインと抜群の機能性で、幅広い層からの支持を得る人気作陶家です。
白華窯 -Hakkayou-
住所
〒848-00341 佐賀県伊万里市二里町中里477-1
WEB
https://www.hakkayou.net
Instagram
@sadamu_yoshinaga
※窯・工房へのご訪問は事前にお問い合わせください。
味わう/KARAE TABLE
陶板アートが壁一面に施された空間のカフェ&ダイニングのKARAE TABLE。唐津・佐賀・九州の新鮮な食材をいただけます。カフェタイムでは、定番&季節の自家製スウィーツを吉永サダムさんの器で提供中のほか、MY唐津焼マグカップを選べるコーヒーセットもあり、唐津焼の楽しみ方が広がります。メニュー詳細はコチラからどうぞ !
\さらに♪/
唐津のまちなかで開催されるゴールデンウイーク恒例イベント「唐津やきもん祭り」期間中、KARAE TABLEでは、創作イタリアンレストラン「Y’S KITCHEN」の中江義行シェフによる、地元の厳選した食材を匠の技でアレンジした「唐津産 真鯛の香草焼きトマトカレー」を、「白華窯」吉永サダムさんの器で楽しめます!
●詳細はコチラ
観る・買う/ギャラリー唐重
唐津くんちの絵巻図と由起子窯の黒唐津焼タイル300枚が圧巻の、ギャラリー唐重&KARAEインフォメーション。「白華窯」吉永サダムさんの作品をはじめ、天平窯、赤水窯、 由起子窯、 櫨ノ谷窯、鳥巣窯、赤水窯、岡本修一、三藤窯、健太郎窯など、唐津にまつわる作陶家たちのやきものを取り揃えています。
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●飲食店:シャンリー唐津 @karae1xiangli
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