自分の道を切り拓く、注目の唐津若手作陶家の挑戦
幼少期から絵を描くことに親しみ、やがて陶芸の世界へ足を踏み入れた飯田隼人さん。12月20日(金)~30日(月)には、若手作家3人が集うGALLERY唐重特別展「土と木と布」に参加され、総数250点以上もの飯田さんの作品がお披露目されます。唐津の地で修行を重ね、今年の春に独立した飯田さんが歩んできたこれまでの道のり、そして目指す将来像について伺いました。
ものづくりに興味を持ったのはいつから?
幼少期から、図画工作は好きでした。制作活動をはじめたのは中学生のときです。当時は学校の寮生活をしていたのですが、時間を持て余していた私を見かねた美術の先生がクロッキーをくれ、それをきっかけに絵を描くようになりました。
寮の美術室にはピカソのデッサン集があり、そのデッサンが私の師でありライバルでした。 当時はピカソがどれほど偉大な画家であるかも知らず、 ピカソが15歳の頃に描いたといわれる玉葱のデッサンを見たときには「世界に15歳でこんな絵を描く人がいるのなら、自分にだって描けるんじゃないか」と思い、 ただその絵を超えたい一心でひたすら絵を描き続けました。
絵を描き始めて3年が経ち、進路選択の時期になりました。当時の私は自立したくて「高校には行かず絵で食べていこう」と心に決めていたのですが、先生から美術科の学校を勧められたんです。それで、福岡にある美術科の高校へ進学。専攻には油絵を選び、美術部に入部しました。
本格的に美術の勉強をはじめられたんですね。
高校時代、勉強が進むにつれて周囲の友人たちはどんどんアカデミックな方向へ進んでいったのですが、私はどうしてもそちらは苦手で、手を動かすことの方が好きでした。大学受験の時期になると、先生からは東京芸大などの美術系の大学を勧められたのですが、当時は進学に必要な資金もなく、環境的に大学へ行く選択肢がそもそもありませんでした。また、アカデミックな世界は性に合わないだろうという考えもあって、就職を選びました。絵の上手い人はたくさんいるんだから進学するのは自分でなくても良いだろう、という卑屈な気持ちもどこかあったんだと思います。
18歳で就職し、上京してブライダルフォトの会社に勤められた飯田さん。写真は以前からお好きだったんですか?
いえ、全く触れたことはありませんでした。けれど高校で案内される求人が「寿司職人かカメラマンか」というくらいに限られていて、少しでも絵に通ずる仕事を、と写真を選びました。それでカメラマンの助手になったのですが、お客様のご案内や衣装チェック、照明のセットなど、写真に関わる全ての業務が私の仕事でした。とても多忙で、ストレスと生活リズムの乱れで今では考えられないくらい瘦せていましたよ(笑)。けれど、アルバムの表紙デザインなどクリエイティブな要素もあって、忙しいながらもやりがいを感じていました。
ありがたいことに職場は温かい方に恵まれて、正月に実家に帰れないことを話すと、奥さんの実家に一緒に連れて行ってくれた先輩もいました。思えばこの頃に、私の理想とする大人像ができた気がします。
その後、退職して九州に戻り、やきものの道へ進まれるわけですが、なにかきっかけがあったのでしょうか?
もともと、ある程度の貯金ができたら九州に戻って、なにかを勉強したいという気持ちがありました。そんな中で東日本大震災が起きました。私は都心に勤めていたのですが、帰宅できる状況でもなく、しばらくは職場の大理石の上で寝泊まりしていました。私だけでなく、みんなが人生について考えるタイミングでもあっただろうと思います。私も、震災をきっかけに一度自分の人生を見つめ直し、九州へ戻ることを決めました。
とはいえ、戻ってもやることがなくて、しばらくはふらふらとしていましたが、あるとき親に有田に窯業学校(※1)があることを聞きました。高校時代に美術部で一度陶芸に触れたことはあるので、全く知らない世界ではなかったし、絵付け職人などの絵にまつわる仕事もあるんじゃないかと思い、進学することにしました。
(※1)佐賀県立有田窯業大学校
佐賀県西松浦郡有田町にあった陶磁器専門の専修学校。2019年3月卒業生を最後に閉校し、現在は佐賀大学・佐賀県窯業技術センター人材育成事業に移行した。
絵を描く仕事をしたいという気持ちがずっとあったんですね。それから作陶家の道を選ぶに至った経緯は?
窯業学校では4年間のコースを選択し、やきものに関する知識全般の座学と実技の授業を受けました。磁器を扱うことがほとんどだったのですが、いまいちピンとこなくて…。「陶芸を一生の仕事にはしたくない」と思っていたほどです。
転機が訪れたのは、夏休みのアルバイトとして、唐津の作陶家である「土平窯」藤ノ木土平さん(※2)のもとで働いたときです。有田や他の産地では組織化された窯がほとんどで、ろくろ、絵付け、焼成、それぞれの工程に専属の職人がいます。一つの物事をとことん極めるスタイルが主流で、作品に対する個人の作家性は低いことが多いのです。ところが「土平窯」では、やきものを通した自己表現の世界が完成されていて、大きな衝撃を受けました。窯に勤める職人ではなく、自分自身の哲学やセンスを取り入れながら創作するスタイルもあるのだと知り、やきもの作家の道を志すようになりました。
(※2)「土平窯」
1980年に藤ノ木土平さん(1949~)が開窯された唐津の窯元。現在は土平さん、息子・藤ノ木陽太郎さん(1981~)の二世代で作陶。自然に囲まれた工房には登り窯・穴窯のほか、日本庭園、茶室、ギャラリーが併設されている。
唐津では、一人の作陶家が一つの窯を持ち、土作りから焼くところまで一気通貫して行うことが主流ですが、そのスタイルこそが飯田さんの求めていたものだったんですね。
絵を描いていた頃から「手に職を持って生きていきたい」という思いがあったので、それを創作活動と共に実現できるやきもの作家はとても魅力的でした。独立を目指して、窯業学校卒業後は修行先を探しました。私は学生時代から備前焼の「龍峰窯」藤田龍峰さん(※3)の作品がとても好きで、窯に行って弟子入りもお願いしたんです。龍峰さんの抹茶碗は、使い手があって消耗されるものでありながらも、自己表現の作品として極まっていると感じたんです。それがなぜなのか知りたかった。龍峰さんに伺うと「食器ものを極めない限り抹茶碗は作れない」と言われました。それで、「使い手がいて、ある程度の利便性なども 考えなければならない食器ものの中で、自己表現をすることを覚えよう」と考えました。結局、弟子入りは龍峰さんのご年齢もあって断られたのですが、これからの修行の方針が確立した出来事でした。
(※3)「龍峰窯」藤田龍峰
1944年岡山県備前市生まれ。備前焼窯元として100年の歴史がある「龍峰窯」三代龍峰。窯元インベ陶芸(泰山窯)で修業を積み、1978年に龍峰窯を継承。2001年、三代龍峰を襲名。ろくろ成形で茶陶を中心に製作。岡山県無形文化財二大藤田龍峰の甥にあたる。
その後、唐津の「あや窯」、そして「天平窯」へ弟子入りされた飯田さん。どういったご縁があったのでしょうか?
窯業学校卒業後に、まず唐津焼窯元の「あや窯」に弟子入りしました。しかし、師匠がご高齢で修業の途中で窯を閉じることになったんです。唐津での修業期間は通常3年間であることが多いのですが、当時私は修行をはじめて2年目のタイミングでした。これからどうしようかと考えていたときに、「健太郎窯」の村山さん(※4)からのお誘いで作陶家同士の食事会に参加しました。そのときに、食事会にいらっしゃっていたのが師匠となる「天平窯」の岡晋吾先生(※5)です。村山さんにご紹介いただく形で、天平窯への弟子入りすることとなりました。
実は天平窯は学生時代に憧れた窯元でもありました。晋吾先生の白磁の作品がある雑誌に掲載されていて、型物の印象が強かった磁器へのイメージがガラリと変わりました。磁器でここまで表現ができるのかと驚き、窯業学校の先生に天平窯で修行できないかと聞いたくらいです。とても厳しいから難しいだろうと言われて諦めたのですが、ひょんなことからご縁が繋がり、嬉しかったですね。
(※4)「健太郎窯」村山健太郎
1978年唐津市生まれ。唐津焼作陶家・川上清美氏に師事。2008 年「健太郎窯」を設立。原料採取から作陶に向き合い、伝統的な唐津焼を基調としながら、現代の食卓に馴染む”用の美”における唐津焼を追求する。
飯田隼人さんと同じく、KARAE1階「GALLERY唐重」での常設お取扱い作家。
(※5)「天平窯」岡晋吾
1958年長崎県生まれ。1982年に師となる志の島忠氏と出会う。1993年西有田町にて独立。2003年、唐津市浜玉町に移転し、「天平窯」築窯。 枠に囚われない独自の作風は「岡晋吾焼」とも呼ばれ、全国に人気を博している。 パートナーである岡さつきさんも「天平窯」作陶家。
飯田隼人さんと同じく、KARAE1階「GALLERY唐重」での常設お取扱い作家。
天平窯で3年間修業し、その後さらに3年間を窯専属の職人として勤務されたんですね。修行時代を今振り返っていかがですか?
天平窯での修行は、弟子入り前に想像していたものを遥かに超える大変なものでした。弟子入り当初は、窯には姉弟子や職人さんなど人員が多くいたのですが、姉弟子の卒業や職人さんの独立などもあって、気が付けば晋吾師匠とパートナーの岡さつきさん、私の3人になりました。人員は減ったけれど展示会や注文などの仕事は変わらないので、当然日々に作陶する量は多くなります。そうした環境だったので、考えるよりも前に手を動かすことが習慣づきました。すると、膨大な量の器を作るために手が早く、より精密になっていきます。実際、ロクロ作業のスピードは、一人で担当する品の量が増えて以降、一気に上がったように思います。
修行では、晋吾先生やさつきさんに「こういうものを作って」とテーマを与えられます。それで、与えられたテーマに対してどのようにアプローチするのか、自分自身で考えるんです。そうして作ったものを先生に見せて、フィードバックを頂き、また考える。これを繰り返すと、段々と器を作るときに押さえるべきポイントが見えてきます。修行当初は漠然としていたイメージが細分化されて、「絵付けしやすい器はなにか」「料亭に出すのであればどんなものが良いか」「お客様が本当に欲しい器とは何か」と、作陶や器を使う場面、器を使う人、様々な角度からより良いものを作れるように考える癖がつきました。すると、自分自身の中でアイデアの引き出しが増えていき、最短で答えを弾き出せるようになるんです。
天平窯での作陶があまりにも大変で、正直辞めることを何度も考えました。けれど、その度に「今ここで作陶を投げだしたら自分はどうなるだろう」と考えるんです。これまでの人生を振り返ると、投げやりなことが多かった。だから今回だけは絶対にやり切ろうと覚悟を決めてやきもの作家を志しました。だから、それさえも投げ出したら自分の人生はどうなるんだと思い止まりました。
唐津焼作陶家は通常3年間の修行が終われば独立しますが、私はあや窯で2年間、天平窯で3年間の修行、さらに弟子明け後は天平窯に3年間職人として勤務し、合計で8年間という20代のほとんどを修行に費やしました。同世代に比べて出遅れてしまったという気持ちもありますが、独立をしてみると、修行時代に手を慣らし、自分自身のアイデアを増やし続けたことが大きな財産となっていて、決して無駄な時間ではなかったと心から思います。
独立へ本格的に動き出したきっかけはありましたか?
実はGALLERY唐重で開催した「天平窯展」(※6)がひとつの大きなきっかけだったんです。天平窯5年目のときに、長く一緒にいたパートナーとの別れがありました。あまりにも衝撃的な出来事に、仕事に対する熱意も何もかもを失って、本当にドン底でした。そんな中で、GALLERY唐重での「天平窯展」のため、大変な量の作品を出展しなければいけない状況になりました。それでなんとか手を動かして、作陶を続けました。
無事に「天平窯展」がはじまったとき、1度だけ自分の名前をSNSで検索したことがありました。普段はしないんですけど、そのときは全ての思考がマイナスになっていて、悪口を言われていないかなと気になってしまったんです。そうすると、私の作品のことを企画展で手に取られた方が「とても良かった」と投稿してくれていました。その一言に、心から救われた気持ちになりました。視界が開けて、作陶の向こう側にいるお客様の顔が見えるようでした。そのおかげで、「私の作ったものを良い作品だと言ってくれる人がひとりでもいるのなら、これからも作陶を続けていこう」という想いが湧き上がってきました。
(※6)「天平窯展」
2021年・2022年・2023年の3回に渡り開催された、「天平窯」岡晋吾さん・岡さつきさんの作品が一同に集うKARAE1階「GALLERY唐重」の特別展。2021年「天平窯展」が、飯田隼人さん初めての展覧会参加となる。その後、全ての「天平窯展」に参加。
お客様の喜びが制作への意欲やモチベーションとなったのですね。
私は、人間のモチベーションとは”誰かのためになること”だと思っています。それじゃあ、やきもの作家のモチベーションとは何だろうかと考えたとき、お客様から求められる作家であり続けることではないかと。自分で自分のことを作家と呼ぶだけでは作家にはなれないんですよね。お客様をはじめとする世間から作家として求められて、初めて成り立つのだと思うんです。以前の私は、モチベーションがパートナーひとりだけに依存した状態でした。それから、自分自身を見つめなおし、作家としてどうあるべきかを考えるようになりました。そして、より飯田隼人という作家に責任を持たなければならないという気持ちから、独立を決意したんです。
やきもの文化が根付くここ唐津に工房を構えられた飯田さん。一方で飯田さんの作品は、唐津焼の手法を用いながらも独自の作風を確立されています。このバランスはどのようにお考えでしょうか?
個人的に唐津焼はとても好きです。実際、唐津焼の手法や素材を、自分の作陶に取り入れています。けれども、私は唐津の風土で育ったわけでも、唐津焼に関して研究してきたわけでもないので、唐津焼を作ろうとは思いません。
以前、晋吾先生に「さらけ出せ」と言われたことがあります。私の作品は、今まで私自身が吸収してきたものからしか出来ないんですよね。そうやって私自身の様々な要素がやきものという形となって、やがて自分だけの世界観になるのだろうと思います。だから自然体でいることが大切なのではないかと、晋吾先生の言葉を私なりに解釈しています。
唐津焼などの焼き名にとらわれず、素直で自由たれという天平窯のスピリッツに通ずるものがありますね。
晋吾先生も陶器である唐津焼の手法を用いて磁器を作ったりしています。型にとらわれず自由に作陶して、それをお客様に認められ、ファンがいる実例を間近で見てきました。中学生のときに、大胆にもピカソの絵を見て「自分にもできるんじゃないか」と思ったように、実例があるのなら私も挑戦してみたいという気持ちがあります。晋吾先生の作家としての在り方は、私の目指すところでもあります。
最後に、これからの展望を教えてください。
窯業学校時代は作家性の強い造形物を作りたいと思っていたこともありますが、今はお客様が良いと感じる、お客様の生活の一部になるものを作りたいと思っています。個人作家である以上、一生に作ることのできる数は限られています。だからこそ、より一人ひとりのお客様にフォーカスして、今目の前の人に必要な器とはなにかを考え、それをより良い形で届けたい。だれかの役に立ちながら、私自身の表現したいスタイルに共感もらえる作品ができたら、こんなに嬉しいことはありません。
飯田隼人 -Iida Hayato-
1991年 福岡県北九州市生まれ。有田窯業学校を卒業後、2016年より唐津焼窯元「あや窯」、2018年より唐津市浜玉の「天平窯」で修行を重ねる。弟子明け後は「天平窯」所属作陶家として経験を積み、2024年春に独立。唐津に自身の窯を構える。伝統的な唐津焼の要素を取り入れながら、既存の枠にとらわれない自由な発想でオリジナルの作風を切り開く、今注目の若手作家。
Instagram @iida_hayato_
特別展「土と木と布」/ギャラリー唐重
KARAE1階のやきものギャラリー「GALLERY唐重」では、特別展「土と木と布」(2024年12月20日(金)~12月30日(月))を開催。本展に参加される飯田隼人さん、木工作家「日の出ロクロ」藤本博久さん、 布と絵をテーマに活動する「摘草」阿部美鈴さんは、高校の美術科での縁により集結した、次世代を担う若手作家たちです。日々の暮らしに寄り添う、温かみと愛嬌ある作品が並びます。飯田さんの作品250点が一同に会す特別展、是非お出かけください。
■詳細はこちら
観る・買う/ギャラリー唐重
唐津くんちの絵巻図と由起子窯の黒唐津焼タイル300枚が圧巻の、ギャラリー唐重&KARAEインフォメーション。飯田隼人さんの作品をはじめ、天平窯、赤水窯、 由起子窯、 櫨ノ谷窯、鳥巣窯、赤水窯、岡本修一、三藤窯、健太郎窯など、唐津にまつわる作陶家たちのやきものを取り揃えています。
【KARAEにまつわるインスタグラムのご案内】
●唐津の魅力を伝える商業複合施設:KARAE @karae_karatsu
●ブティックホテル:HOTEL KARAE @hotel_karae_
●コンセプトショップ:KARAE SHOP @karae_shop
●カフェ&レストラン:KARAE TABLE @karae_table
●やきものギャラリー:GARALLY 唐重 @gallery_karae
●映画館:THEATER ENYA @theater_enya
●飲食店:たまとり @tamatori_karatsu
●飲食店:シャンリー唐津 @karae1xiangli
●シェアオフィス&レンタルスペース:MEME KARATSU @memekaratsu
【KARAE公式LINE@への登録案内】
KARAEの公式LINE@に登録すると、もれなくKARAE TABLEのドリンク1杯プレゼント。月に数回のペースでKARAEのお得な情報に加え、唐津のまち歩きマガジンや唐津焼の作陶家をはじめ唐津にまつわるアーティストの方のインタビュー記事などが届きます。
公式LINEはコチラから!
■KARAE運営会社
いきいき唐津株式会社
公式Instagram